2020年10月29日木曜日

神はなぜ人間に知性を与えたもうたのか?

■敵味方の視点しか持てない人

自然農をしていながら、慣行農法に関するビジネスをすると、否定的に感じる人がいたようで変に突っかかってくる人がいました…もうブロックしましたが…。
自然農は、〇〇農法、というような固定的な”ノウハウ”=方法、を押し付けるものではありません…
自然農は、自然の中に自分の命、人間の生き方も置かせていただく、という意味です…ですので、自然の循環の中にいのちがある限り、何をしても良い訳なのです。ある畑では、養分が足りず、ある畑では窒素過剰で、それぞれに適切に応じる…”応じる”というのがミソです…応じることができないならば、その人は観察眼という意味でも怠惰ですし、農業者としてかなり不足しているという意味です…農業者というのは、応じ方を学んでいるということです…
思えば、私は登山で、登山という手段での、自然に対する応じ方を学んだのです…
-25度の環境にいかに応じるか? 一人でテント泊してみてください。テントが飛ばないためにはどう応じるか?2月に雪ではなく雨が降ってくるこの時世に、厳冬期の雨に”応じる”にはそれなりの知恵と人間的強靭さが必要です…

応じる方法を学んで… 私の感想は、いかに私の自然観が虚像に基づいていたか?でした…。

すっかり自然界についてビビっていたのです…やってみたら、そんなに大変じゃなかった…。私にできたことなのですから、若い男性だったら誰でもできるようなことでした。

体力自慢の登山家○○さんしかできないすごいことではなかったのです…例えば、最年少エベレストの〇〇さんは、阿弥陀北稜で滑落して大事故を起こしていますが…私は阿弥陀北稜単独ソロで登っています…

自然界についての応じ方…の基礎、ベーシックを知るというのが登山なのです。そこで学ぶ最も大事な能力は、自然には勝てないということを知ることです。山に歯向かえば、必ず山は人を喰らいます…もう知人縁者の何人が山に散ったでしょう…いやはや…。

私は決してそんな危ない橋を渡らないように気を付けて来ていますが、因はあっても縁が来ないから、死んでいないだけです。それでも、一個も死ぬような山がない九州で、岸良海岸での肉離れからスタートして、八女ボルダーでの膝脱臼… クライマー生命の危機です…現在水泳で回復中…あだ花でバタフライが花咲き中…。

話を自然農に戻しますと… 自然農を敵としたり、慣行を敵とする必要はないのです…それは視野の低い見方です…。

なぜなら、我々はすべて、自然に対する応じ方をそれぞれの領分で学び中の身だからです。

適切な応じ方を知りたければ、農法を越えて、自然が何を語り掛けているのか、その真実を知らないといけません…

稲麹が言っていたのは、「今年の夏は湿度が高かったよ」、ってことで、「今年は豊作だったよ」ではありませんでした。稲麹は湿度が高い時に特定の稲の種で発生する現象です。
見方によっては、”病気”。別の見方によっては、”ありがたい賜りもの”です。麹を手作りで作りたい人にとってはありがたい存在です。

ですので、人間がすべきことは、もし麹を作りたくなった場合には、どの稲でよく取れるのか知り、それを利用することです。必要ない場合は耕種的に回避して、その種類の稲を植えないように学習すればいいだけです…

正しく見る、正見というのはそういうことだと思います…神は、なんのために人間に知性を与えたのでしょう?万物が幸せに暮らせるバランスを知る、それをつかさどるためなのでは?

だって富をもったところで、死ぬときには全く意味ないんですよ???

思えば、私が食べてきて良いなと思ってきたお野菜は、いつも自然農のお野菜だったのでした…。

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