プロフィール

■農村青年vs畑違いの人

福岡正信さんのセリフで

「現代の農村青年はダメですね。徹底的に企業農業みたいなものをたたき込まれている。」

「うちに来るのは、畑違いの人が多いですね。コンピュータなりなんなりやってみて、その先が見えたというか、都市文明から抜け出そうとする者が多い。」

はぁ…。なんと… 今、私が受けている試練は、なんだかとっくの昔に既出の葛藤でした…。

■ 都市文明への幻滅の歴史

私の最初の仕事は、ロボットの開発部でした。すごく良い職場で、私の仕事はバグ出し。下っ端の仕事です。新しいパナロボの開発に燃えていました…チームは、中島みゆきのプロジェクトXが聞こえてくるような感じでした…。

しかし、ロボットって、世界中で一番安い労働力との価格競争なんです…ロボット価格vs人件費。人々を苦役から救うのがロボット開発だと思っていたのに、現実は、むしろその逆です。

会社はロボット市場は消耗戦と気が付き、事業部自体を解散することにしたのですが…。もともとパナはロボットは強くなく、ファナックや安川の後塵…。真似下と言われるくらい、パクリが得意というか…。それを乗り越えようとした意欲ある開発だったのですが、その中腰を折られた感じでした…。

その後、私は研究所付きになり、個人事業主として、磁気軸受けや電動アシスト自転車、バイオセンサーなど、お手伝い…。研究所は楽しかったですが、不景気対策で新しい取引先から口座整理となりました。後は、当時、組んでいた師匠を追ってサンヨーでの携帯、BSチューナーなど、呼ばれるところはどこでも行って、開発経験を増やしました…。しかし、どこも泥沼の開発で、現代の蟹工船です。人を増やせば解決する問題でもないのですが、営業畑の人はそれは分からないし…。

そもそも日本人は楽をする開発の発想がない…人海戦術しか困った時に作戦がないのです…。プログラミングの優秀性というものは、人海戦術の対局にあります。IT関係において、優れた人って意味は、例えば、数式で長ーく書く人と数行の人がいるでしょう?あれと同じです。しかし、日本の業務評価システムでは、長ーく書かないとお金にならないので、下手くそが得をする。自分で首を絞めています。非効率な方がお金になる。

海外のエンジニアを指揮する立場…インドの方などをまとめてる立場、海外での開発もやっています。カンザスやNZ等、長期の海外出張などです。海外のエンジニアたちと仕事して、日本人が開発する意味はないな~と自覚。あちらの人はきちんと教育をうけた人しか来ないので、言えばすぐ分かってくれます。一方日本人は人手不足とかいうので、前職関係なく、誰でも開発部に入れているので、もうこれは基礎的知識の欠損している人…って人が来ます。IPアドレスって何ですか?とか聞く後輩とか…これはもう勘弁な人が、上級エンジニアと同じ給与では…という現実です。そうしないと来ないからですね…。

私はあるとき、開発が心底嫌になり…会社に「いくら出したら来てくれるんですか?」と言われ、”ああ、私は一生開発には戻りたくないんだ…”とこの質問で自覚しました…。

その後は、落ち着いた生活を求めて、市場調査の会社に行ったり、翻訳者として、外資数社経験して、大阪では、やっと落ち着いた勤め先を得たところで、夫の転勤。福岡での短期間は物産OLしました。全く畑違いで新事業開発です…。”なんでこの仕事することになったのか…”と思っていたら、山梨で人助けするのに、役立ちました。山梨では、ヨガの講師などして今へ至ります。

やはり、都会生活、文明の歪み、おかしさを感じます。

都会の人の気持ちがよく分かります。なにしろ、昼も夜もあまり関係ない生活で、晴れか雨かも、よく分からないで生活していました…。

山梨の人たちの間では、都会への羨望…、主に富への羨望を感じましたが、その羨望が微妙に誤解に基づいていることを知っていました…。山梨の人だけではないと思いますが、その土地から出ず都会生活を知らない人は、都会のネガティブ面は知らないです。狭い家、高い家賃、毎朝の通勤ラッシュ、コンクリートに囲まれた生活、熾烈な会社での競争、稼いでも稼いでも同じだけ出ていくラットレース…。
 
…というので、山梨では都会と比して30年前の価値観のまま、戦後の拡大再生産路線である…ので、都会ほど”都市化”されていないことに卑屈になっており、残念な感じでした。
もとより、日本中が東京になるわけはないでしょう…。

コウモリと同じ立場で、地元の人からは異分子扱いされるし、都会の人からは田舎にいるため、仲間と見なされないし…別のタイプの羨望を受けますし…。そして、それは基本的には、ぼったくられる、という現象に表れました…。田舎は価格が二つあります。友達価格と非友達価格です。ある登山用品店ではだれもが無料で駐車しているところ、駐車場代取られそうになるとか、ずげずげと明らかな差別行為をされます。

ので、あまり良い印象が持てず、買い物の用事があるときは、一物一価の東京まで登山用品は買いに出かけていました…交通費がかかっても…そのほうが精神衛生に良かったです。カラファテによく行きましたっけ…。たまには都会に行かないと、時代遅れになりますし。

なんだか最後愚痴になりましたが、山梨で良かったことは、原生林をたくさん見たことです。私は夏山より冬山が好きだったので、夏の原生林は主に沢登りで見ています。イワタバコとか、珍しい植物やきのこ、熊との遭遇などですね。主に水辺。

山をやるようになって本格的な登山しか知らないで個人で登っていたので、夏山の山小屋で働いて、現代人が、高山や深山という山に来ても、自然なんかちっとも見ないで、自己顕示欲の山…つまり、スタンプラリー競争や体力競争に陥っている姿を見て、すごくガッカリしました…。登山ガイドは、積雪期ガイドのスキルがありますが、資格は取得していません…。ぜんぜんやりたい活動じゃない…。個人で、読図とか、クライミングの基礎とか教えています。

■ 地球メンバーの一員として

今は、農業の世界に足を踏み入れたところで幸せにより近づいています。山に登っていると、地球自体の営み、を感じます。自分の悩みなど、地球レベルの時間軸の中では些細なものです。人間界の悩みなど、なんと愚かで目先のことに振り回されているでしょう…。

自分が小さなパーツでしかない、という感じと、もし、そのパーツが影響力があるとするならば、何らかの媒介者であるのだろう、という意識です。すべての植物は、媒介者であるのですから…。

そういう考えに至ったのは山を登っていたからです。

そうなると、俗世の中での自分というのは、天動説だと思っている人が大多数の中で、地動説だと分かっている少数民族、みたいな感じです。

農業の世界では、日本の農林水産省を含め、アメリカやヨーロッパでも、世界的に多数派は、人間中心主義から脱却しつつあるようです。持続的農法が求められています。

今回のコロナで、日本の山の世界も、予約がない登山者を受け入れない施策など、”儲け中心主義”と言う名の人間中心主義から、”環境という名の自然界中心主義”へシフトしつつあるようで、良い方向だと思っています。

一般に日本人が後発国だと感じている韓国は、韓国は、日本と比べて、著しく国家権力が強く、環境中心主義への転換は、日本より迅速に進んでいます。逆に言えば、日本の環境中心主義が進まないのは、国民個人個人の力が、国家権力に対して韓国と比べれば、影響力があるからです。それだけ日本という国は、個人に配慮しています。

日本の市民の間では、国を責める論調がすごく根強いですが、変わりたくないのは、手と足である国民のほうで、頭脳(=国)が何でも問題を解決してくれる、国は万能だと勘違いしている依頼心の強さが、日本が変われない元凶のように思います。

■ 見たい未来とは?

Be the Change You Want to See in the World!

自分が見たい変化そのものに自分自身がなりなさい…。ガンジーの言葉です。

自分が変化を体現する、という意味で、自然農への回帰、自然の中に含まれる人間の在り方への回帰は、私が見たい未来の姿、そのもの、です。

後は具現化するだけです。


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