2021年7月17日土曜日

7月16日の松国の作業 田んぼの除草

  7月16日の松国の作業

昨日は比較的涼しい日だったのでチャンスとばかり、田んぼの除草に出かけた。3回目の除草。

まだ幼い稲のうちは、手を貸さないと、稲は雑草の勢いに負けてしまう。なので、除草は、母性を活用する活動だ。母性的な人の方が育てるのがうまい。相手が何かを口に出さないでも、すっと察して手を貸すような人のことだ。

小さいころ、母は厳格で厳しく、”気が利かない”と言われて、叩かれることが多かった。弟については、母はしつけは、”男の子だから”と諦めモードで、妹についてはもう仕事で忙しくて、しつけどころではない…ので、結局、第一子の私にだけが親としての厳格さで及んだと言える…小さいころ母が私を叱るスタイルは、正座させて定規で叩くという時代錯誤感があるもので…それを私はそのまま弟にしたことがあるんだが…母にはそれはかなりショックだったようだった。私自身も、なんでそんなことをしたのか?しつけスタイルを弟にやった理由が何だったのか?今では分からないが…。弟が泣いてごめんなさいと謝るのが印象的で、その時は勝利者と敗北者がいたような気がする。恐ろしいことだ。

母の厳格なしつけはどこから来たのか?というと?おそらく、親としての務めを果たさないといけないという不安と恐怖、そして世間へ後ろ指を指されてはいけないという世間体で、子供のころの私の自分の状態を私は人質状態と感じていたんだよなぁ…。母の世間体のために、見栄えのする良い子でいる必要があった。大体体よく母の道具になってやった。それが子供のサバイバル術だからだ。

諦めて良い子になったということ。あきらめて家のことをやり始めた。それ以外に生きる道がないみたいな感じ。たぶん、弟にも妹にも、そのような状況にぶら下がることが彼らにとってのサバイバル術だったんよなぁ…

そこに、”幼いうちは手を貸す”、という発想はない。母は私に必要なことを考えて手を貸して良い子を育てたわけでないし、私は弟や妹が幼いから、今は、と手を貸していたわけではない… 誰にも母性はない。母が作り出したいサクセスストーリーは、私が異常に優秀で母性にあふれた人で、自分の進学どころか、弟と妹とついでに母まで養うというストーリーのようだったようだが…どんなに気を利かせろと言われても、ない袖は振れない。

そうできたら良かったなとは思うけど、そうは問屋は下ろさないとも思う。幼いうちは手を貸す、どころか、カラスノエンドウにすらすがるエンドウ豆のようなありさまでないか…カラスノエンドウのほうがうんとか細いんですぞ?

ということで、カラスノエンドウは、エンドウ豆から離れて生きることにした。

お米は、見ていると、どうもすっくとひとりで天を衝くように葉を延ばすのが好きなタイプで、不定根で地面を矮性で広がる水草に、まとわりつかれるのは好きでないみたいだ。矮性の草は、自立心がある草に立ってもらって、自分はその草の方向に向かいたいもののようで、そういう立っている者がない場合は、ずっとグランドカバーをしている。

お米の気持ち、分かるなぁ…。自分は目指すものがあって伸びているのに、そんなものがない矮性の水草が自分の進路を真似して来ると、ああ~気持ち悪い!しかも、重たいんですけど!みたいな感じだ。葉が触れるのすら嫌って感じ。

お米にとっては、勝手にさせてほしいって感じなのだろう…と。というわけで、お米を除草で応援してきた。

まぁ水草の立場になると、お米と同様に懸命に生きて、その生き方が矮性だったというだけなんだが…どこにでも根を出して懸命。

今年福岡は空梅雨で、本格的な梅雨は来ないまま、夏になった。松国では自然農の田んぼに限らず、他の田んぼもみなひび割れており、水が来ないで困っている…。

そういうわけで、水草は弱っており、水陸両用のお米のほうが有利だった。

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