■自然の声を聴く
私は登山で、自然の声を聴く、という活動に惹かれたのです。小さいころ得意は理科と国語でした…。理科で好きだったのは、結局のところ、自然界はなんてうまくできているんだ!ってことでした。神の存在を感じます。
山にいて自然を観察するのが好きなのですが、山登りで山が語り掛けてくる物語は、傾斜の成り立ちや植生から来る物語です。山はそれぞれ個性があり、一つの山であっても、登山道はそれぞれ個性があり、ということです。
山の中はとても純粋な感じがしますが、それと同じ質を自然農の畑に感じます。それで自然農がいいと思うのです。
正直、宇宙がどう…とか、は、神学と同じで否定も肯定もできないので、人と議論になることは避けたいと思っています。というのは、信じたい人は信じる必要があるから、そう思うのだろうから…。それを私が否定しても仕方ありません。真実は人の数ほどあるということです。
私自身も何かにすがりたい、と思うから、これまでも、哲学、心理学、ギーター、仏教と多くの宗教について、勉強していると思います。
宗教については、有効であれば使えばよい、という実用的立場が、私の立場です。どの宗教が真実か、どれが本物か、で比べあうと、そこに宗教戦争が生じてしまって、本末転倒と思います。争わないための宗教なのに。
■ 持続的農法
自然農が目指す目的、とは何だろうか?と重うと持続的な生活、というのが私にとっての目的です。
『大草原の小さな家』の一家は、森に獲物がいなくなったから、移住を決めたんですよ?あの西部開拓の時代ですら、あの空っぽのアメリカの大プレーリーですら、もう人間を支えるのに、科学を用いないやり方だと人間は食べることが十分できなかったらしいです。イナゴの大群が押し寄せてきて、今年の収穫のすべてをダメにしてしまう一夜が描かれています。今もアフリカは同じようです。
それを思うと、まるで汚染物質のように、農薬を扱うのは間違っていると思います。確実に救済されてきた人類の歴史があるからです。…とはいえ、無作法な使用は、天に唾を吐く行為ですから、そのまま、その通りのことが起こっている。
今回農薬の勉強をしてみて、一般の人の農薬観は、昭和40年のものだと分かりました。一方土壌についても、一般の人の考えだけでなく、農業者も無知のようです。耕うんで土が硬くなり、不耕起栽培が科学によっても選ばれていることは知られていない。科学ですら、耕さない方がいいよ、って言っているのです。科学亡者なら、何で知らないの??? 科学を信じているというよりも、単純に勉強不足なんじゃ?
また施肥についても、農業者の無知を感じました。私は窒素過多の野菜を食べると、なんとなく貧血チックなんですが…。ブルーベイビー症候群という、れっきとした病気があります。これも科学だし…。自然農でほうれん草を食べれたら、違いが分かるのでしょうか?
ホウレンソウ、鉄分のために気を付けて取ろうと思っている人が多いと思いますが、シュウ酸の害は、自然農だろうがそうでなかろうが同じです。たとえば、ギシギシなども食べ過ぎればNGです。
正しい食、ということを色々考えて、やっぱり自給することが一番確実な方法だと思います。
一方、職業的な、営農、ということに、農業という手段をもちいるのは、ほぼ9割の人が挫折している世界です。農業で営利をえていくのはそもそも何か間違っているのかもしれません。作物で食べていく世界は、アグリビジネスという世界で、農業とは全く別物です。ほとんど植物工場、です。工場生産に植物の生理を利用させていただく、といこと発想の順序が逆です。その証拠に、レタス、トマト、いちごと言った限られた植物しか適していないです。
■ 100億人を食べさせる
世界全体を見ると、75億人はいうまでもなく100億人を食わせないといけない…と神の立ち位置で未来予測している学者の方たちは恐怖におびえているようですが、実際、その人たちが研究を急ぐ脇で、そもそも食えるか食えないか以前に、地球自体を破壊してしまっているのが経済界です。
日暮れまでに土地を囲い込んで戻ってくることができるなら、好きなだけ土地を上げようと言われた小作人が欲張りすぎて、元の位置に戻ってこれず死んでしまった寓話が人類史に実現しようとしています。この寓話、最後は、小作人は半畳ほどの土地に埋められ、”ああ、彼に、必要だったのはこれだけの土地だったのにね…”と言われてしまいます。
同じことで、今の西洋文明と同じ生活を全中国人や全インド人が行うと、地球が〇〇個必要だと言われています。が…あるのは、一個だけです。
つまり、彼らは西洋的な繁栄を享受できないであろうということ、現在手にしている人はそれを手放していくことになるだろう、ということです。
奪い合いではなく、分かち合いの世界が出てきたらいいなぁと思っています。